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期待しても裏切られるという諦めがある。
今回も「やっぱりそうなんだ」と確認しようとしている自分がいた。

だけど、それをもう蓄積したくなくて、
行動を変えて、結果を変えようとした。

結果は変えられた。
現象だけ見れば期待通りの結果なはずなのに、
この行動自体が自分がその人を信じられないことの証明に思えてしまったり、本当にこれで良かったのか?と思ったり、
喜ばしい気持ちを少しも持てなかった。

なぜ喜べないのか?
原因を考えてみると、
大きな罪悪感が根底にあるということに気づいた。

私は人と何かする時、
申し訳ないという罪悪感を過剰にもつことに気づいた。

お茶する時も、
お願いを聞いてもらう時も、
発言の時間を与えられる時も。

相手の好きに使えただろう有限の時間を、自分との時間に使わせてしまった。
と思いたくなる癖があるのだと思う。

そこから、
自分なんていなくていい、いないほうがいい。
につながってるんだとわかった。






7日目

意志さえあれば、
何が起きても大丈夫。

自分も他人もどんな現象も
疑わなくていい。

全部俯瞰して観て、
全てとの出会いを楽しめばいい。

人類誕生からこれまで、
たくさんの人々の意志や想いを経て生まれ守り紡がれてきたものがある。

それに出会えたことがどれだけ感動的な事件なのか。

それを手にしていこうとしている私が、
自分の可能性を信じなければ何もはじまらない。

一緒にやっていく仲間を信頼しなければ何もはじまらない。


出来る出来ないじゃない。
わかるわからないじゃない。

やってみればいい。

やれることをやりながら、
安心してタイミングを待てばいい。





5日目

私が今ここに在るのはなぜだろうか?

人は生まれてからずっと無数の選択の連続だ。
そのうちのどこか一つでも違う選択をしたとしたら、
全く別の結果になることだろう。


そしてさらに私が生まれるまでには親の選択の連続があった。
親の親も、その上も、その上もそう。

名前も顔も知らない無数の人の選択を経て、私もあなたも今ここに在る。

人の選択だけではない。
宇宙が広がっていて、その果てしない宇宙の中の地球という星が誕生し、そこに生命が誕生し進化してきたこと…etc.

数え切れないほどの奇跡の連続を経て、私は今ここに在る。


その上で自分が今ここに在ること、
目の前の人と出会えることは、
言い表しようのないほどの神秘だ。
人とも、人でないものとも深く深く繋がっている。

この実感がある時、
自分と他人や世界を分離して、
無関係の個人でいられるだろうか?
傷つけあうことを仕方ないと諦められるだろうか?

境界線は絶対的に存在していると思われているけれど、
境界線ほど曖昧なものはない。無関係なんてありえない。

バタフライエフェクトを考える時などもそれを実感する。

誰一人孤独には生きていない。

4日目

現実ってなんだろう?


現実というひとつの言葉にもその場その時によってたくさんのニュアンスが込められる。


大辞泉国語辞典、哲学辞典など

とにかく引っ張り出して、

「現実」やその類義語、対義語を片っ端から調べてみた。


言葉で言葉を説明するのが辞書だから、調べても調べてもキリがなかったけれど、


理想から創られる今ここを

現実ということもできるかもしれないと思った。


不完全なのが現実

完全なのが理想


人は何もかも全て理想の世界を手に入れられるのだろうか?


今考える理想を全て手に入れたとしたらそれはもはや理想ではなく現実になっていて、

その時には既にその時考える次の理想が存在してるように思う。


どこに向かっていくんだろう?

そもそもゴールはあるのかな?

3日目

水槽の真ん中に板を立てて半分で区切る。
そこに一匹の魚を入れる。

当然その魚は板の向こうには行けないし、板の向こうがあるというイメージすらない。

その魚は長い間、
本来の水槽の半分のスペースを行ったり来たり泳ぎ続ける。

ある日その板を取り払う。

しかし、
かわいそうな魚はそこに板がなくても、これまでと同じように水槽の半分を行ったり来たり泳ぎ続ける。

これまでの行動パターンを繰り返し続ける。


その魚の行動を変える方法とは?


その水槽の中に、広い世界で泳いで生きてきた魚をちゃぽんと投入するのだそうだ。

その魚は、
今まで広い水の中で自由に泳いでいたし、かつてそこに板があったことなど知らないから、
水槽の真ん中のラインをなんともなしにスーッとこえてしまう。

それを見たかわいそうな魚はそこでようやく気づいて、
真ん中のラインを超えることができ、本来の水槽の広さを享受することができる。

これはちょっと前に聞いた、
かわいそうな魚の話だ。


人間もかわいそうな魚と同じではないだろうか?

知っていること、やったことがあることしかできない。
過去に蓄積されたことから成るイメージの範疇で行動している。

私も、かわいそうな魚を広い世界へ導いた魚のようになりたい。
そして誰しも、この魚のようになれるのだと思う。

しかし同時に、

水槽の半分しか知らないとしても、現在最高に幸せだと言われたらどうしたらいい?
そのまま満足して死ぬなら、それでいいのではないか?

という疑問も出てくる。

いやいやもっと素晴らしい世界があるんです!
そう熱弁したとして、
それは相手を不幸だと勝手に決めつけること、否定することにならないのか?
押し付けにはならないのか?


人を変えるなんてできない。
自分を変えるのは結局自分だから。

人を変えようはエゴだと私は思う。
だから、
苦しくて変わりたい人が変われる道を拓いてあげたり、
土を用意してあげることが大切だと思う。

道を歩くのも、
種を植えて育てるのも、
その人の自由だと思う。

2日目

今日人を観察して思ったこと。

人はなぜ笑うのか?

笑うとは?笑顔とは?

人類で一番初めに笑った人は、
なぜ笑ったのだろう?

嬉しい時も、
怒っている時も、
悲しい時も、
楽しい時も人は笑う。

人といる時も一人でいる時も、
さまざまな場面で笑う。

笑うのには色んな理由が
あるみたいだ。

漠然と、笑うのはイイことだ
というイメージがついているけど、

笑顔の下にどのような
考え、感情、イメージがあるのかは
その時々によって異なる。

なぜ笑っているのか?
それを知ろうと思うと、
意外と簡単じゃない。

その笑顔がその人のどこからどのようにきているのか?
そもそも笑うって何なのか?が
よくわからないから。

いろいろな説があるけど、

「そのとき起きた何かと
過去の記憶の中にある何かが
結びつくことによって
引き起こされているのでは?」

というのを読んだことがある。


もしそういう面もあるのなら、

過去の経験体験によって
作られる記憶というものは
誰一人同一ではないから、

楽しくて笑い合ったとしても
本当に通じ合えているわけじゃ
ないんじゃないか?とも思う。

人が笑っている時、
つい勝手に自分の基準で
受け取って感情が動くけど、

それは表面に見える一部分を切り取って、
過去から現在まで蓄積された
自分の中の記憶と繋いで
勝手に思い込んでいることになる。


人と人はわかりあえる、
通じ合えるものだ。

というのを当たり前の事実と
思っていたけど、
本当にそうなのだろうか?

そもそもわかりあう、
通じあうってどういう状態なんだろう?




「違いだけを取る」を利用する

お互いの違いが出会って、

その違いを生かしたまま、
引っ張って出しての
動きができることで、

お互いのあいだに循環が起き、
個人では成し得なかった
新しい創造がなされる。

それを行う時、
相手は相手
自分は自分で
存在してるいるようであり、

それでいて同時に、
境界線がなくひとつでもある。