3日目

水槽の真ん中に板を立てて半分で区切る。
そこに一匹の魚を入れる。

当然その魚は板の向こうには行けないし、板の向こうがあるというイメージすらない。

その魚は長い間、
本来の水槽の半分のスペースを行ったり来たり泳ぎ続ける。

ある日その板を取り払う。

しかし、
かわいそうな魚はそこに板がなくても、これまでと同じように水槽の半分を行ったり来たり泳ぎ続ける。

これまでの行動パターンを繰り返し続ける。


その魚の行動を変える方法とは?


その水槽の中に、広い世界で泳いで生きてきた魚をちゃぽんと投入するのだそうだ。

その魚は、
今まで広い水の中で自由に泳いでいたし、かつてそこに板があったことなど知らないから、
水槽の真ん中のラインをなんともなしにスーッとこえてしまう。

それを見たかわいそうな魚はそこでようやく気づいて、
真ん中のラインを超えることができ、本来の水槽の広さを享受することができる。

これはちょっと前に聞いた、
かわいそうな魚の話だ。


人間もかわいそうな魚と同じではないだろうか?

知っていること、やったことがあることしかできない。
過去に蓄積されたことから成るイメージの範疇で行動している。

私も、かわいそうな魚を広い世界へ導いた魚のようになりたい。
そして誰しも、この魚のようになれるのだと思う。

しかし同時に、

水槽の半分しか知らないとしても、現在最高に幸せだと言われたらどうしたらいい?
そのまま満足して死ぬなら、それでいいのではないか?

という疑問も出てくる。

いやいやもっと素晴らしい世界があるんです!
そう熱弁したとして、
それは相手を不幸だと勝手に決めつけること、否定することにならないのか?
押し付けにはならないのか?


人を変えるなんてできない。
自分を変えるのは結局自分だから。

人を変えようはエゴだと私は思う。
だから、
苦しくて変わりたい人が変われる道を拓いてあげたり、
土を用意してあげることが大切だと思う。

道を歩くのも、
種を植えて育てるのも、
その人の自由だと思う。